僕の祖父が残してくれた戦争体験記〜戦争体験を聞いたことがある人にも聞いたことがない人にも読んでほしい〜

僕は母方の祖父が大好きでした。
よく小さい頃に遊んでもらったからというのもあるのでしょう。
僕が高校1年生の頃でした。
小論文を書かなければいけなかったのですが、そのお題というかモトとなるものに、祖父の戦争時の体験を綴ってもらいました。
400字原稿用紙にして9枚と半分ほど。
結構な分量です。
当時これで戦争に関することを小論文に書いたんだと思います。
その小論文はどこかにいってしまいましたが、祖父からかいてもらった戦争体験の原稿は残っていました。
だんだんこういう話をしてくれる人や、聞く機会もなくっています。
僕の子供たちも戦争体験の話なんて聞いたことはないです。
紙のままでもよかったのですが、せっかくなのでEvernoteに丸々写しました。
そしてこのブログにも残しておこうと思いました。
「戦争中ってこういう状況だったんだ」というのを読んで知ってもらえれば。
祖父が当時書いてくれたものをそのまま忠実にコピーしているため、読みづらい部分などがあります。
それはそれで僕の思いでなんで許してください。
僕の感想は書きません。
これを読んでそれぞれが何かを感じとってくれればいいです。
長男には後1-2年たったらEvernoteかこのブログの記事を読ませるつもりです。

祖父の戦争体験記

私が福岡県の貝島大之浦第一国民学校高等科2年を卒業した15才の時義母のたっての希望もあり軍人以外の職業に就くことで、昭和18年4月1日長崎県大村市にある第21海軍航空しょう工員養成所見習科へ入所致しました。
航空機製造の技術養成所で九州一円から選抜されての入所で私の学校からも一人でした。
養成所は旧陸軍大村聯隊の南側に校舎と宿舎があり、所長は海軍中佐で岡部と云う人でした。
入所当初は航空機製造に関する全般の学科、体育と規則正く希望に満ちた楽しい毎日でした。
昭和19年になって所内での学業が少なくなり工場に実習に行くことが多くなりました。
でも工場では当時海軍の新鋭機零式戦闘機の製造で目に見るのも皆んな珍しく日常の新聞等で見る零戦の勇姿にあこがれを抱きつつ残業や徹夜等も苦しくはありませんでした。
でも徹夜の時など立っていて眠った事もしばしばありました。
昭和19年の12月中旬だったと思ひます工場での実習をしていました。
午后3時頃だったと思ひますが空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り響きました。
何時もは警戒警報があるのにと思ひましたが機械類の運転を停止して工場横にあるエンタイ壕に入る様指示を受け工塚の外に出てみると発動機(エンジン)の試験塔の上に設けてある対空機関銃がグラマン機に向かって一斉に発射していました。
そしてその内の一人が倒れるのが見えました。
これは何時もの空襲と違うと感じエンタイ壕へと走りましたが壕の中は人が一ぱいで入れないと思ひ次のエンタイ壕へと走り続けました。
走りながら前後で爆弾が破裂して土をまき上げ大きな穴があき土に足をとられながら一目さんに走りました。
そしてどの壕も人が一ぱいで入ることが出来ません。
その間海岸線より進入したB29の編隊が山手に向かって空襲が続き工場地帯は一面の焼野ヶ原でした。
上空は黒煙で暗くなっていました。
突然目の前がパット明るくなり「ガーン」と耳がなり何も聞こえなくなりました。
私はそばにあった壕の端っこの方にかろうじて伏せていました。
しばらくは耳が「ガンガン」鳴っていて物音人の声も聞こえませんでした。
ようやく人の声や物音が聞こえるようになり周囲を見て驚きました。
私が入った壕はコの字形に鳴っていて私は爆弾が落ちた反対側の入り口にいたのです。
爆弾が落ちた方から4分の3位付近の人は、ほとんどの人が即死の状態でした。
空を見ると黒煙が空一ぱいに棚引き小雨が降り出していました。
立ち上がって歩き出しましたが足の踏み場もないように爆弾の穴があちこちに空いていました。
そして各壕を廻って生存者の救出に当たりました。
時間は午後8時位だったと思ひます。
月が青白い光で照していました。
生存者を確認。
養成所の同僚はタンカで養成所へ運びました。
養成所へ帰って見ると被害者ごったがへしていて自分達のは入る部屋がなかった。
各教室は臨時の病室に鳴っていて負傷者の苦しみの声が充満していました。
10時頃にぎりめしと漬物が出ましたが、停電でローソクの灯りの中で食には喉を通りませせんでした。
その夜は同僚の負傷者のそばで一夜を過ごしました。
その同僚も朝早く「お母さん痛くてたまらん何とかして」と叫びながら息を引きとりました。
翌日は朝早くから工場へ出掛けましたが一面焼野ヶ原で残った建物はまだ燃えているものもあり、爆発地の土の中から黒く土色に染まった死人の収容をしました。
その腕の時計はまだ動いていました。
午后3時頃で遺体の収容作業を終へ海岸沿いに幅80cm位深さ1m程度の溝を100m位に掘って棺を下ろしその上に薪と石油をかけて火葬にしました。
その時の名札から地方から工場に女子挺身隊員としてきていた人達の遺体である事が解りました。
遺体を焼く匂ひと黒煙が上空に向かってまひ上がっていました。
それから1週間位は遺体の処理作業に従事していました。
その間冗い物の要件で大村市街地に出た時憲兵隊の分所の前で大勢の人だかりに出向ひ、覗ひて見ると、防空壕の中にB29の搭乗員が3人か4人位入れられていました。
中は暗くてよく見えませんでしたが手間の2人は手錠をはめられているようで胸の当りからは血が出ていました。
何とか云っているのですが私には言葉がわかりませんでした。
その内に群衆の中から石を投げる者、竹竿で米兵をついた者がいて、米兵が大声で抗議していました。
あまり騒騒しいので事務所から軍人の人が出てきましたが止めようとはしませんでした。
軍人の人が止めたら群衆からの抗議が出るだろうと思いました。
私は公用中でもありその場を離れて帰りました。
養成所の方は臨時病室に使用されていて私達は竹松の臨時宿舎の方に移転致しました。
そして午前中の学科体育の時間割はなくなり工場へ出向いて後かたづけけの毎日でした。
工場の方はほとんどの工場が大破の状態で製造組立の作業は不可能の状態でした。
又夜間になると焼夷弾の空襲が続き寮に帰ってからもおちおち休んでいられない状況でした。
そんな時のある日福岡より母と妹が面会に来てくれました。
大村空襲のことを聞いて心配してのことでした。
母達も途中空襲や艦載機の銃撃に会ひながら数日かかった顔は黒くなつていました。
面会の時間は30分くらいだつたと思ひます。
その時のにぎりめしとタマゴ焼の味が忘れられません。
汽車の時間に合わせて竹松の駅まで送り汽車が発車した瞬間急について帰りたくなり汽車の後をつけてはしりました。
力つきて汽車は見る内に遠ざかっていき涙がポロポロてて仕方がありませんでした。
20年3月頃と思ひます。
工場も各部別に疎開するようになり私達の工場は佐賀県の塩田町へ移転することになり、宿舎としてお寺の本堂へと引っ越しをしました。
そしてお寺の裏山一帯を切り広げて整地にしました。
地元の嬉野高女の女子挺身隊員等も毎日作業に従事していました。
作業の間にもグラマン機の機銃掃射が頻繁にあり、その度に作業は中断し一向にはかどりません。
時には操縦士の顔が見えるくらい低空してきます。
ずい分悔い思ひをしました。
塩田町に疎開してからの生活は艦載機の空襲は執拗にありましたが、比較的規則正く平凡な生活でした。
工場の責任者は海軍の技術中尉で片山さんと云い年齢は25才位の方でした。
お寺の空地にドラムカンの風呂があり、風呂を焚いていました。
周囲はまつ暗で上空には星がまたたき虫がないていました。
「中原君年はいくつだ」
との声に
「はい17才です」
と答へました。
しばらくして
「この戦争は我が方が敗けるかもかもしれないよ。そのことを感がへていなさい」
と行って
「どうも有難う湯加減大変良かったよ」
とい上がっていかれました。
私は本気では受け取りませんでしたが、片山中尉はないておられたように思ひました。
盛夏8月の上旬のことでした。
私はそれから3,4日はその言葉が頭から離れませんでしたが誰れに話はしませんでした。
片山中尉はその後も今までと変わりなく毎日を過ごされ、朝礼等でも今までと変わりなく、いつしかそのことは忘れていました。
昭和20年8月9日の午后2時頃だったと思ひます。
「今から鹿島駅まで部品を受取りにいくので急げ」
と云われてリヤカーを引っ張って出発いたしました。
駅まで40分位かかり駅に着きなにげなくホームを見ました。
ちょうど列車が着いていました。
そしてホームのムシロの上には上衣は焼けただれ顔や手足が焼けどで真っ黒になった人が大勢横たわっている光景を見ました。
ただ空襲でやられた人で病院がいっぱいで鹿島まで運ばれたんだと思ひながら部品を受取って帰りました。
翌日も工場にて作業を行ひましたがた艦載機の機銃掃射を何度も受け、その都度避難をし作業ははかどりませんでした。
今までと違って片山中尉が現場におられることが少なくなりましたが、私達は毎日敵機の空襲に怯えながら作業を続けていました。
8月15日天気は快晴。
大変暑かったことを覚えています。
もう空襲にくる時間だと思ひましたが朝から一度もおりません。
毎日来ていたものがないとなんだか変な気になりました。
11時すぎ片山中尉が見えて全員集合がかかりました。
そして本日正后ラジオにて重大な発表があるので各自お寺の境内にくるように云われました。
皆で作業を切り上げ宿舎になつているお寺へ引上げ待機いたしました。
そして重大な発表て何があるんんだろうと皆んなで話し合ひましたが結論は出ない内に時間になり全員がお寺の境内に整列いたしました。
私はその内に風呂場でので片山中尉の言葉が思ひだされて仕方がありませんでした。
しかしそういう事は絶対にないと打ち消していました。
そしてジィジィと雑音混じりの声でよく聞こえませんでしたが天皇陛下の戦争終結の意味が解りました。
片山中尉の方を見ると泣いておられました。
その内皆んなもすすり泣きになり、やがて座り込み大声て泣き出す人もいました。
私も戦争が終わった事は感じましたが深い意味は理解出来ませんでした。
その後は皆呆然としてお寺の本堂で割当された場所で次の指示を待ちました。
翌朝微用で地方から来ていた人達は逐次帰っていかれました。
私達養成所出身者10名は宿舎での後かたづけをしてできるだけ早く帰郷するようと云うことで、その後4,5日遅くなり、8月下旬に帰郷いたしました。
そして8月9日鹿島駅で見た人達が長崎での原子爆弾による被曝者であったことを知りました。
そして昭和18年4月1日から昭和20年8月15日までの2年4ヶ月を顧みて、平和、戦争のない時代のありがたさをつくづく思うのでした。

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